2019年06月27日

なんのために生きるのか

重いタイトルだけど、たいした内容はありません。

ちょっと前にやったNHKスペシャルの「安楽死」の回を見たり「君たちはどう生きるか」という題名が心に残っていたり、ブログで「自分にとって生きるとは働くこと」と書いてるのを読んだりしていろいろ考えてたのだけど、結局まとまるわけもなく、ダラダラとヤマなしオチなしイミなしで書いてます。

まず、「安楽死」「尊厳死」について。
(参考:「彼女は安楽死を選ぶしかなかったのか」 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65395

自分はどちらかというと賛成派だったのですけど、実際番組を見てたら最後ちょっと悲しかったので(残された姉妹の姿に)やっぱり人間の意志の介入なしで自然に任せるのがいいのかな、と思ったり、といいつつ自分も人間にも「象の墓場」みたいな誰にも邪魔されない死に場所がないかな、と思ってたりもするわけで、自分の意見も定まらないような問題で社会のコンセンサスをとるのは難しいだろうなぁ、と結局「何もしない(延命措置をしない)」選択肢があればいいかな、というのが自分的な落とし所かな…
(ちなみに有名な「トロッコ問題」(トロッコがそのままの進路を進むと3人轢いちゃうけど、進路を変えると1人轢くだけで済むときに進路を変えるべきか?という問題)も自分は何もしない派(理由はそれが”運命(確率的に定められた宿命)だから特に介入しない)

病気になると「なぜ生きるのか」という問は多くの人が考えることだと思います。
特に脳卒中のような後遺症で介助が必要な病気になると。

私は割と早い段階で「残りの人生はアディショナルタイム」で終了のホイッスルが鳴るかレッドカードで退場になるまではプレイ続行(ルールの範囲内で自分がベストと思うことをやってりゃいいやと)と決めたので社会への貢献とか家族への迷惑とかで悩むことはあまりなかったのだけど、”死生観”って人それぞれですからねぇ…

自分は「仕事」は食ってくためのもので、できれば自分の興味のあること好きなことで他人の役にも立つものが好ましい、程度の考えなので働けなくなっても特になんとも思いませんでした。
というか、病気になる前5年ぐらいの仕事はクソのような仕事(言葉が悪いな うんちのような仕事)だったし、周りを見ても将来こうなりたい、というロールモデルになるような人はいなかったし、「生きるとは働くこと」とは病気以前から考えてなかったですね。「働くのは自分の時間の切り売り」と考えてました。

生きるとは「基本的人権の”健康で文化的な最低限度の生活”を享受するために”納税””勤労””教育”の義務を果たすこと」程度で。
今は通勤できないから”勤労”が弱いよなぁ… 
”納税”は毎年ちゃんと確定申告してるし(収入少ないから還付金が返ってきちゃうくらいだけど、あまり悪いとは思わないです 儲かってる人が払えばいい 自分も儲かった時には払うからお互い様)
”教育”は義務教育は終わったし、大学のあと数年分の学費ぐらいはなんとかなるでしょう。

そもそも病気する前から、大学時代に行った水族館でクラゲが水流に翻弄されてぐるぐる回り続けてるのを見てて「こいつ何やってるんだ」と思いながら、人間も同じで個々の個体の生き方にそんなに意味はない、マクロに見て人類が存続すればいい、種としての生き方は遺伝子レベルでプログラミングされてるから、それに従って生きるのが一番。と生きる意味については自分なりの結論が出てしまっていて今でもあまり変わってなかったのでした。
まぁ、それじゃあまりにも夢がないので、いろんな人がきれいなラッピングを考えてるので自分が信じられるもの信じたいものを信じればいいと思うけど。
大学生の頃から今までの長期間、病気で死にかけてもブレてないから結構いいとこ突いてるんじゃないかと思ってます。

しかし、長くて読みにくい文章だなぁ… 
なんか、活字中毒で海外に行っても読めない外国語の新聞や雑誌読むの好きだったぐらいから書く方もなのかもね。
ネットのなかった時代は読むものがなくて、海外のホテルに一人で宿泊してた時、施設案内とか観光案内のパンフを読みあさった後、引き出しの中の聖書まで読んでたことがあるから筋金入りよ。

添削するなら、「尊厳死の話」と「生きる目的の話」と「活字中毒の話」3つに記事を分けて、一文は短く、()で書き忘れたことを加えるのはやめて、句読点は正しく打ちましょう、と流し読みしただけで言えるけど。
posted by one-hand-engineer at 13:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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